論理と推理の違いとは? 実は推理小説などにおける真相の解明は、結局犯人からの自白に依存している

今回は、論理と推理の違いについて説明していこうと思う。長くはならないとは思うが、頭を使ってはもらうので、覚悟していただこう。

 

まず、世の中には論理的思考クイズというのがある。知識は一切必要なく、問題文の中にある手がかりだけで答えを導き出せるというものだ。

その中でも有名なものの一つが、今回取り挙げる「3つの調味料問題」である。

偶然か否か、この問題は論理的思考だけではなく、推理によって解くことでも正解できるようになっているという珍しいケースであるため、今回はこの問題を、論理的思考と推理の2通りの解き方で解きながら、違いについて説明することとしよう。

 

まず、問題の内容はこうだ。

シオさん、コショウさん、サトウさんという名前の3人が、一緒に食事をしている。
 そのうちの1人があることに気づいた。
「それぞれ塩、胡椒、砂糖を持っている」と言うのだ。

 塩を手に持っている人が、それに応えてこう言った。
「誰も自分の名前と同じ調味料を取らなかったんだ!」

 するとサトウさんが「砂糖を渡してくれ!」と言った。
 最初に気づいた人は砂糖を手に持っていない。
 コショウさんは何を持っている?

 

さて、まずは論理的思考によって解いていこう。

この解き方では、問題文の中にある確かな事実を手がかりとして、考え得る可能性を一つずつ検証していくのだ。

①最初に気づいた人をA、塩を手に持っている人をB、最後の一人をCとする

②Aがシオさんである場合、Aは塩を持てず、またAは砂糖を持っていないという記述があるため、Aは胡椒を持っていることになる。その場合、残る調味料は砂糖と塩で、Bは塩を持っているから、Cは砂糖を持っていることになり、Bがサトウさん、Cがコショウさんだということになるが、ここで矛盾が発生する。Aがシオさんだとするならば、Bはサトウさんかコショウさんのどちらかであり、Bの後にサトウさんが発言しているということは、Bはコショウさんだということになるではないか。よって、Aはシオさんではない。

②Aがコショウさんである場合、残るはシオさんとサトウさんで、Bは塩を持っているため、シオさんではなくサトウさんなのだということになるが、ここで矛盾が発生する。Bが発言した直後に、サトウさんが発言しているではないか。Bとサトウさんは別人でなければならないのだ。よって、Aはコショウさんではない。

③Aがサトウさんである場合、残るはシオさんとコショウさんで、Bは塩を持っているため、シオさんではなくコショウさんなのだということになる。よってCはシオさんであり、残る調味料は砂糖と胡椒で、サトウさんは砂糖を持たないため胡椒を、シオさんは残った砂糖を持っているということになり、矛盾は一つも無いため、唯一矛盾の無い場合であるこの場合が正しいということになる。

④よって、サトウさんは胡椒を、コショウさんは塩を、シオさんは砂糖を持っているため、コショウが持っているのは塩である

証明完了。

 

以上のようにして証明するのが、論理である。

この解き方では、「○○が××をした」のように明確に述べられている事実(命題)だけを理由にして考えるのだ。これが論理的思考である。

 

では次に、推理によってこの問題を解いてみよう。

確認用に、もう一度問題文を載せておく。

シオさん、コショウさん、サトウさんという名前の3人が、一緒に食事をしている。
 そのうちの1人があることに気づいた。
「それぞれ塩、胡椒、砂糖を持っている」と言うのだ。

 塩を手に持っている人が、それに応えてこう言った。
「誰も自分の名前と同じ調味料を取らなかったんだ!」

 するとサトウさんが「砂糖を渡してくれ!」と言った。
 最初に気づいた人は砂糖を手に持っていない。
 コショウさんは何を持っている?

 

推理では、はっきりと述べられていないことであっても手がかりとして考える。

①まず問題文では、Aが「それぞれが3種の異なる調味料を持っている」と言い、それに応じてBが「誰も自分と同じ名前の調味料を取らなかった!」と言った。しかし、なぜこのタイミングでBはそれを言ったのだろうかと考えてみる。

②最初に言うでもなく、最後まで言わないでもなく、Aが「三人が塩と胡椒と砂糖を持っている」という事実を開示したタイミングでBがそれを言ったということは、Aの開示した事実が、その「誰も自分と同じ名前の調味料を取らなかった」という事実のヒントになって、その時初めてBはその事実に気づいたということだろう。

③Bからしてみれば、他の2人のうち1人は胡椒を持っていたということは明らかだった。胡椒は、見ればそれとわかるからだ。しかし、もう一人が持っている砂糖が、果たして砂糖なのかまではわからなかった。外見は塩と同様、粒が少しだけ粗くて白っぽい粉だからだ。一般的に、食卓に置いてある白い粉で、粒が少しだけ粗い粉と言ったら、それは砂糖か塩のどちらかだろう。従って、Bは最初に、砂糖を持っている人(仮にXとする)に対して、「砂糖か塩のどちらかを持っているんだろうな」と思っていたのだと考えられる。

④そこにAから、「それぞれが持っているのは塩と胡椒と砂糖だ」と告げられる。そこで初めてBは、Xに対して、「この人は砂糖を持っていたのか」と気付き、「皆が自分の名前と違う調味料を持っている」という事実を述べた訳だが、つまりそれは、もしXが持っている物が砂糖ではなく塩だったのであれば、その事実を述べることはできなかったということなのではないだろうか。

⑤つまりXはシオさんであり、Bは最初、シオさんが塩を持っているのかなと思っていたのだが、それはAの発言と、自分が塩を持っているという事実によって否定されたため、消去法によってシオさんが砂糖を持っていることに気付いたのだ。また、三人ともお互いの名前は当然把握していただろうから、Bは、塩を持っている自分はシオさんじゃないし、コショウを持っているあの人はコショウさんじゃないという事も知っていた。よって、「みんなが自分の名前と違う調味料を持っている」と気付いたのだろう。

⑥ならば、シオさんは砂糖を持っていて、コショウさんは胡椒を持てないから塩を持つしか無くて、サトウさんは残った胡椒を持っているということになる。よって、コショウさんが持っているのは塩なのだ。

推理完了。

 

このようにして答えを推定するのが、推理である。この解き方では、問題文の中ではっきりと述べられていないことまでを前提条件としている。また、「人はこういう時こうする」とか、「人はこういう時にこう言う」のような、人間の心理や行動原理を根拠にして考えているのだが、これらはあくまでも「人はそうである確率が高い」とか「人にはそういう傾向がある」とかっていう話に過ぎず、不確かなのだ。

そのため、論理よりも推理の方が、より不確かであり、絶対性に欠けるのである。

従って、推理小説などで名探偵が推理をしてみせるような展開がよくあると思うが、ああいうのも結局のところは、「あなたが犯人である確率が高い」ということを言っているに過ぎず、相手が犯人であることを完璧に証明している訳ではないのだ。だから推理小説では、最終的に諦めた犯人の自白や自供の場面があって、そこでようやく、その人間が犯人であるということが証明される(ただし虚言の可能性を除く)という訳である。

 

という訳で、論理の方が推理よりも正確であると言えよう。もちろん、論理だけではどうしようもない問題は、推理するしかないのだが…逆に、論理だけでどうにかなる問題は、推理を一切せずに論理だけで答えを求めなければならないのである。