論理と推理の違いとは? 実は推理小説などにおける真相の解明は、結局犯人からの自白に依存している

今回は、論理と推理の違いについて説明していこうと思う。長くはならないとは思うが、頭を使ってはもらうので、覚悟していただこう。

 

まず、世の中には論理的思考クイズというのがある。知識は一切必要なく、問題文の中にある手がかりだけで答えを導き出せるというものだ。

その中でも有名なものの一つが、今回取り挙げる「3つの調味料問題」である。

偶然か否か、この問題は論理的思考だけではなく、推理によって解くことでも正解できるようになっているという珍しいケースであるため、今回はこの問題を、論理的思考と推理の2通りの解き方で解きながら、違いについて説明することとしよう。

 

まず、問題の内容はこうだ。

シオさん、コショウさん、サトウさんという名前の3人が、一緒に食事をしている。
 そのうちの1人があることに気づいた。
「それぞれ塩、胡椒、砂糖を持っている」と言うのだ。

 塩を手に持っている人が、それに応えてこう言った。
「誰も自分の名前と同じ調味料を取らなかったんだ!」

 するとサトウさんが「砂糖を渡してくれ!」と言った。
 最初に気づいた人は砂糖を手に持っていない。
 コショウさんは何を持っている?

 

さて、まずは論理的思考によって解いていこう。

この解き方では、問題文の中にある確かな事実を手がかりとして、考え得る可能性を一つずつ検証していくのだ。

①最初に気づいた人をA、塩を手に持っている人をB、最後の一人をCとする

②Aがシオさんである場合、Aは塩を持てず、またAは砂糖を持っていないという記述があるため、Aは胡椒を持っていることになる。その場合、残る調味料は砂糖と塩で、Bは塩を持っているから、Cは砂糖を持っていることになり、Bがサトウさん、Cがコショウさんだということになるが、ここで矛盾が発生する。Aがシオさんだとするならば、Bはサトウさんかコショウさんのどちらかであり、Bの後にサトウさんが発言しているということは、Bはコショウさんだということになるではないか。よって、Aはシオさんではない。

②Aがコショウさんである場合、残るはシオさんとサトウさんで、Bは塩を持っているため、シオさんではなくサトウさんなのだということになるが、ここで矛盾が発生する。Bが発言した直後に、サトウさんが発言しているではないか。Bとサトウさんは別人でなければならないのだ。よって、Aはコショウさんではない。

③Aがサトウさんである場合、残るはシオさんとコショウさんで、Bは塩を持っているため、シオさんではなくコショウさんなのだということになる。よってCはシオさんであり、残る調味料は砂糖と胡椒で、サトウさんは砂糖を持たないため胡椒を、シオさんは残った砂糖を持っているということになり、矛盾は一つも無いため、唯一矛盾の無い場合であるこの場合が正しいということになる。

④よって、サトウさんは胡椒を、コショウさんは塩を、シオさんは砂糖を持っているため、コショウが持っているのは塩である

証明完了。

 

以上のようにして証明するのが、論理である。

この解き方では、「○○が××をした」のように明確に述べられている事実(命題)だけを理由にして考えるのだ。これが論理的思考である。

 

では次に、推理によってこの問題を解いてみよう。

確認用に、もう一度問題文を載せておく。

シオさん、コショウさん、サトウさんという名前の3人が、一緒に食事をしている。
 そのうちの1人があることに気づいた。
「それぞれ塩、胡椒、砂糖を持っている」と言うのだ。

 塩を手に持っている人が、それに応えてこう言った。
「誰も自分の名前と同じ調味料を取らなかったんだ!」

 するとサトウさんが「砂糖を渡してくれ!」と言った。
 最初に気づいた人は砂糖を手に持っていない。
 コショウさんは何を持っている?

 

推理では、はっきりと述べられていないことであっても手がかりとして考える。

①まず問題文では、Aが「それぞれが3種の異なる調味料を持っている」と言い、それに応じてBが「誰も自分と同じ名前の調味料を取らなかった!」と言った。しかし、なぜこのタイミングでBはそれを言ったのだろうかと考えてみる。

②最初に言うでもなく、最後まで言わないでもなく、Aが「三人が塩と胡椒と砂糖を持っている」という事実を開示したタイミングでBがそれを言ったということは、Aの開示した事実が、その「誰も自分と同じ名前の調味料を取らなかった」という事実のヒントになって、その時初めてBはその事実に気づいたということだろう。

③Bからしてみれば、他の2人のうち1人は胡椒を持っていたということは明らかだった。胡椒は、見ればそれとわかるからだ。しかし、もう一人が持っている砂糖が、果たして砂糖なのかまではわからなかった。外見は塩と同様、粒が少しだけ粗くて白っぽい粉だからだ。一般的に、食卓に置いてある白い粉で、粒が少しだけ粗い粉と言ったら、それは砂糖か塩のどちらかだろう。従って、Bは最初に、砂糖を持っている人(仮にXとする)に対して、「砂糖か塩のどちらかを持っているんだろうな」と思っていたのだと考えられる。

④そこにAから、「それぞれが持っているのは塩と胡椒と砂糖だ」と告げられる。そこで初めてBは、Xに対して、「この人は砂糖を持っていたのか」と気付き、「皆が自分の名前と違う調味料を持っている」という事実を述べた訳だが、つまりそれは、もしXが持っている物が砂糖ではなく塩だったのであれば、その事実を述べることはできなかったということなのではないだろうか。

⑤つまりXはシオさんであり、Bは最初、シオさんが塩を持っているのかなと思っていたのだが、それはAの発言と、自分が塩を持っているという事実によって否定されたため、消去法によってシオさんが砂糖を持っていることに気付いたのだ。また、三人ともお互いの名前は当然把握していただろうから、Bは、塩を持っている自分はシオさんじゃないし、コショウを持っているあの人はコショウさんじゃないという事も知っていた。よって、「みんなが自分の名前と違う調味料を持っている」と気付いたのだろう。

⑥ならば、シオさんは砂糖を持っていて、コショウさんは胡椒を持てないから塩を持つしか無くて、サトウさんは残った胡椒を持っているということになる。よって、コショウさんが持っているのは塩なのだ。

推理完了。

 

このようにして答えを推定するのが、推理である。この解き方では、問題文の中ではっきりと述べられていないことまでを前提条件としている。また、「人はこういう時こうする」とか、「人はこういう時にこう言う」のような、人間の心理や行動原理を根拠にして考えているのだが、これらはあくまでも「人はそうである確率が高い」とか「人にはそういう傾向がある」とかっていう話に過ぎず、不確かなのだ。

そのため、論理よりも推理の方が、より不確かであり、絶対性に欠けるのである。

従って、推理小説などで名探偵が推理をしてみせるような展開がよくあると思うが、ああいうのも結局のところは、「あなたが犯人である確率が高い」ということを言っているに過ぎず、相手が犯人であることを完璧に証明している訳ではないのだ。だから推理小説では、最終的に諦めた犯人の自白や自供の場面があって、そこでようやく、その人間が犯人であるということが証明される(ただし虚言の可能性を除く)という訳である。

 

という訳で、論理の方が推理よりも正確であると言えよう。もちろん、論理だけではどうしようもない問題は、推理するしかないのだが…逆に、論理だけでどうにかなる問題は、推理を一切せずに論理だけで答えを求めなければならないのである。

倫理の存在意義とは?なぜ、残酷な刑罰は禁止しなきゃいけないのか?

「倫理」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。

まあ、昨今において「倫理的に問題がある」という表現が多用されすぎていて、中には間違った意味合いで用いられることも多くなってきた近年であるが、倫理とは元々、以下のような意味なのである。

「様々な感情・価値観・思想を持った人間達が、いたずらに争わず、互いに協力し合い、上手いこと穏便に共存していくための、規範やルールを作る上での考え方」

 

さて話は変わるが、世間を見てみると、倫理を軽視するような発言を確信的に行う者を見かけることがある。

その最たる例が、「犯罪者は全員死刑にしちゃった方が良い」とか、「こんな凶悪な犯罪者には残虐な刑罰を与えるべきだ」とか、犯罪に関する主張である。

これについて筆者は、そもそも何のために倫理が生まれたのか、なぜ倫理が必要なのかという点と紐付けで、反論していこうと思う。今回はそういうお話だ。

 

そもそも倫理の中には、最も重要な理念として、「なるべく争いを生まないようにするべきだ」という考え方がある。

倫理の目的は人間同士が協力し合って繁栄することなのに、その人間同士で争っていたら始まらない。

まあ尤も、皮肉なことに、ある特定の人間を敵に回すことで、同じくその特定の人間を敵に回している他の人間達と協力し合うことができるという側面も、人間同士の敵対という事象の中にはには存在するけれども、倫理で目指しているのはそんな小規模な協力と助け合いではなく、言ってしまえば全人類の協力と助け合いと高め合いなのである。

 

では、なぜ全人類で協力し合わなければならないのか?それは、人類が生物として強すぎるからだ。人類を敵に回すのが、危険だからだ。

知能は高く、知略、技術力、あるいは知能によって「鍛錬」という概念を認知したことによる、体力。何よりも集団行動をする生き物だ。

自分が人類であるかどうかに関わらず、戦う相手が人類なのであれば、それだけ戦うリスクはあるということだ。戦うがために、多くを失う可能性が高いのだ。

以上が、倫理の理念と、その根拠の説明である。

 

さて、話を戻してみよう。

犯罪者を全員死刑にしようとか、凶悪犯には残虐な刑罰を与えようとか、そういったことが倫理的に間違いである理由についてだが、これは先程も言ったよう、倫理の中で最も重要な理念である「なるべく争いを生まないべきである」という考えに反しているからである。

極端な刑罰や残虐な刑罰を実行してしまうと、冤罪の可能性は抜きにしても、「更生の余地があった家族を殺された」とか、「家族を苦しませながら殺された」とか、殺される犯罪者の家族や友人には、辛い思いをさせるに違いないだろう。

中には、「そんなことがまかり通るような法律を決めたこの社会に報復してやる」という風に、武力で社会に対抗しようとする者も現れるだろうし、すぐには行動に移さずに、同じような志を持つ者を密かに集めて、徒党を組んで実行してくるかもしれない。

それがいわゆる、テロリズムであったり国家叛逆であったりするのだ。

 

ここで、「犯罪者が罰せられるのは当然だろ」とか、「悪いのは犯罪者側だから、犯罪者側には報復をする権利が無い」とか、そんな事を言う人間もいるかも知れないが、しかし、それが一体、どうしたというのだろう?

だから何だというのだろう?

そうやって、社会に報復しようとしている遺族に説明すれば、「ああ、それだったら自分が悪いね。じゃあ報復はやめるね」と納得してくれるとでも思っているのだろうか?

それこそ、綺麗事である。

どちらが正しくてどちらが悪いとか、そんな実体の無い概念は本質ではなく、ただ現実問題として、そういう風に社会に報復してくる人間や集団が現れる可能性があることが問題なのだ。

 

従って、例え相手が悪くとも、相手が文句を言えない立場でも、なるべく相手の恨みや憎しみを買わないようにするべきなのだ。文句を言えない立場であっても、強引に武力による攻撃を仕掛けることはできるのだから。

刑罰を執行するにしても、犯罪者の危険性を無くすことと、犯罪者やその家族などに恨まれたり憎まれたいしないようにすることを両立しなければならないのだ。

そのため、更生の余地があるならば死刑や終身刑にはしないし、更生の余地が無くとも、あまり苦痛を伴わない死なせ方で死なせてあげる必要があるという訳である。

 

以上が、極端な刑罰や残虐な刑罰が倫理的に悪であり、また倫理そのものも正当な考え方であるということの理由である。

笑いの本質は攻撃なのか? ~いじめとの関係性~

プロデューサー・評論家・著作者・大阪芸術大学客員教授など様々な肩書きを持つ、岡田斗司夫という男性がいる。

彼は、自身のYouTubeチャンネルでこう主張した。

 

「笑いで世界を救うことはできない。何故なら笑うという行為は攻撃性の表れなのだから。」

 

この主張を聞いた当初、筆者はその通りだろうと考えた。

笑う事の本質は「嘲笑」であり、例えばいじめなど、特定の個体に対する比較的軽度の社会的攻撃をする際に、その対象を嘲笑することこそが、笑うという行為の根本であると考えた。

 

進化論的に言うならば、笑うという機能を獲得する事のメリットとして、変わり者を見つけた時にそいつを皆でいじめて排除することができるようになるという点があるため、ヒトはそのような機能を持つように進化したのだと考えた。

変わり者、あるいは異端者をこぞっていじめることによって、一緒にいじめをした仲間との団結力が高まったような気がするだろうし、そうでなくとも自分と気が合わない者を排除する事がやはり自分の所属する集団の結束力を維持することに繋がる。

従って、少なくとも自分が後世に子孫を残すことだけを基準にするなら、いじめという行為にはメリットがあるのだ。

 

勿論、いじめた相手に復讐されては本末転倒であるため、復讐してきそうな攻撃性の高い相手はあまり積極的にいじめたくならないように、もしくは最初からいきなり迫害の段階に入るように、本能が調整されているという訳である。

(※誤解の無いよう言っておくが、全人類がそれに該当する訳ではない。)

 

以上が、我々ヒトがいじめという機能を持つに至った経緯であるが、たった今言った通り、相手が復讐してきては意味が無い。それ以外の理由もあるが、概ねその理由によって、いじめには段階があるのだ。

正確に言うと、いじめっ子には、段階的にいじめをエスカレートさせていきたくなるような本能が備わっているのだ。

 

第一段階として、小手調べ。対象者と仲良くなるフリをしながら、対象者をよく観察し、復讐してきそうにないヤツなのか、仲間にした方が得をするんじゃないかなど、色々と値踏みする。吟味する。

第二段階として、相手がいじめても良さそうだと思ったら、暴行、傷害、器物損壊、窃盗、名誉毀損、侮辱、痴漢や強姦、果ては殺害など、迫害に近い本格的な攻撃行為を以っていじめる。

大きく分けると、いじめにはそういう流れがあるのだ。

 

そしてこのうち、第二段階を司る感情は軽蔑や侮蔑・憎悪・嫉妬などであることは言うまでもないだろうけれども、筆者は、第一段階を司る感情こそが「可笑しい」「おもしろい」といった笑いの感情なのではないかと解釈して、岡田斗司夫氏の話を聞いた当初はそうやって辻褄を合わせた。

 

しかし、最近になってそれは微妙な論理であると気づいた。

人はというか、少なくとも私は、笑う時に「こいつをいじめようかな」という感情を必ずしも持たないのだ。

「嘲笑」や「軽蔑」以外の感情で笑うこともある。例えば、高い能力を持つアスリートの功績を知った時や、高い技術力によって作られた高機能の機械などを見た時、解き方が斬新な問題を知った時などにも笑うことがあるが、それはいじめたくなったり排除したくなったりする感情とは違う感情による笑いだ。

 

確かに嘲笑や軽蔑や相手を見下す感情などについては、自分より相手の方が弱くて劣っていて、仮に自分が相手をいじめた結果として復讐されても大丈夫そうだという感想を孕んでいるのだろう。

しかしそれだって、それは相手が「弱くて劣っている」と思っているだけであって、相手が「変わり者で異端者だ」と思う事とは違う。

だから、それはいじめを始めとした「社会的攻撃」の理由にはならない。

相手が「変わり者で異端者」と感じるという事はつまり、多数派に属している自分と気が合わないという事だが、多少相手が弱くて劣っていたとしても、自分と気が合うのなら仲間にしてしまえば良い筈だ。

見下す理由になるだけであって、それだけではいじめる理由にはならないと考えるのが合理的だと筆者は考える。

 

ただし、いじめという行為とは別に、ただ優越感に浸るためだけに個人的に弱者を攻撃する個体も存在する。これについては、例外とする。

 

結論を言うと、まあシャーデンフロイデなのか何なのかよく判らないが、とにかく「いじめをしたくなる感情」を始めとする他者への社会的攻撃欲求は、「可笑しい」「おもしろい」などの笑いの感情とは別物であると、筆者は考えるのである。

剣道握りと、剣術握り

突然だが、皆さんは竹刀と真剣の持ち方が違うということについてご存知だろうか。

 

剣道で竹刀を使う時は、右手と左手を離すようにして間を空けて持つ。(以降、剣道握りと呼ぶ)

しかし剣術で真剣を持つ場合にはその限りではなく、右手と左手を近づけて持つという持ち方もあるのだ。(以降、剣術握りと呼ぶ。)

 

アニメなどで、刀を使うキャラクターの手元をよく見てみると、剣道握りで持っていることは多く見受けられるのに、剣術握りで持っていることは殆ど見受けられない。

 

この現状について、私は剣術の理合が一般にあまり知れ渡っていないことが原因であると考え、また残念に思う。

少しでも多くの人に「剣術握り」について知ってくださると幸いだ。

 

今回は、この「剣術握り」について解説する。

 

 

結論から言うと、剣道握りは鈍器の持ち方であり、剣術握りは刃物の持ち方である。

「叩く」だけの竹刀であれば鈍器として扱っても良いのだが、「斬る」ための道具である真剣ならば刃物として扱わなければならないということだ。

 

「叩く」と「斬る」は具体的にどう違うのかと言うと、「刀の刃の角度に対する刀自体の進行方向」が違うのである。

 

包丁で例えよう。

 

横から見た時に刃のラインが真っ直ぐで直線になるような包丁の場合、その直線の向きを「Aの向き」とする。

また、その包丁で物を切る際に入れる力の向き(包丁の進行方向)を「Bの向き」とする。

 

この時、Aの向きとBの向きが垂直の関係になっていると、かなり切りにくい。

それはつまり、包丁の刃の部分で食材をただ「押しているだけ」なのだから。

 

「切る」とは、そういうことではない。

「切る」とは、刃を対象物に押し当てるだけでなく、その状態で刃をAの方向に動かすという動作である。

つまりこの時のBの方向は、Aの方向に対して垂直でも平行でもない、斜めの方向になる。

これが「切る」という動作である。

 

何故これなら切れるのかと言うと、まず刃を押し当てた時に対象物と刃の接触面に大きな圧力が生じ、その状態でAの方向に動かすことで大きな摩擦がごく狭い範囲に集中するからだ。

 

ところで、「摩擦」と「摩擦力」の違いをご存じだろうか?

「摩擦」は擦れることそのものを表す言葉で、「摩擦力」はその摩擦に対する抗力(反作用)として、摩擦を食い止める力である。

つまり、摩擦という力を跳ね返す力が「摩擦力」である。

押す力を跳ね返す垂直抗力と同じだ。

 

しかし、跳ね返すと言っても限度がある。

どんな物体にも、「それ以上は跳ね返せない力の強さ」というのがある。

あまりにも強い力で物を押すと、その力の一部が跳ね返されなくなる(=押された物が壊れたり変形したりする)のと同じように、

あまりにも強い摩擦が生じると、その摩擦の一部が摩擦力として跳ね返されなくなる(=滑る)という現象が起こる。

摩擦力は物体の表面の細かな凹凸が引っかかり合うことで生じるが、力が強すぎるとその凹凸が壊れてしまうのだ。

この現象を、私は「摩擦による表面の崩壊」と呼んでいる。この場においては、略して「摩擦表面崩壊」と、便宜上そう呼ぶことにしよう。

 

先程説明したような方法を使って刃物で物を切る時、切れる部分には強大な摩擦が生じる。

そのため、対象物の表面が跳ね返せる摩擦の強さの限界を軽々と超えて、対象物に摩擦表面崩壊が連続的に起こることで、刃が当たっている部分だけが壊れていくのだ。

 

それはつまり、包丁を動かす手の力が、刃が対象物と触れている部分の、尚且つ表面だけに集中するということである。

表面だけを破壊して、そうするとそのすぐ下にあった部分が「表面」になるから、そこをまた破壊して…という、作用の分割である。

ただ押すだけだと、一度に刃が向いている部分全てを相手にしなければならないが、切る動きであれば、刃が向いている部分の表面だけを相手にすれば良いだけなので、楽なのである。

これが、少ない力で簡単に切断できる理屈である。

 

刀で「斬る」場合でも同じだ。

刃の向き(Aの向き)に対して、刀身の進行方向(Bの向き)をやや斜めにしなければ、うまく斬れないのだ。

 

そして剣道握りでは、Aの向きとBの向きが垂直になりがちなのである。

 

そもそも何故剣道では右手と左手を離して握るのかというと、てこの原理と似たような理屈で、竹刀の回転運動(円運動)を少ない力で生み出せるからだ。

なるべく素早く、速く打ち込まなければ勝てない剣道においては、その方が合理的である。

 

しかし、真剣をその剣道握りで握って対象物を斬るのは困難だ。

 

何故なら、まず剣道握りでは、柄の部分を支点(回転軸)とした円運動を生み出すことが非常に楽であるのだが、それ故ついついその動きに頼って刀を振ってしまいがちなのだ。

それだと、Aの向きとBの向きは常に垂直の関係になってしまう。

先程説明したように、斬る動きではなく叩く動きになってしまいがちなのだ。

これは、実際に何か棒状の物を振ってみればわかるだろう。

 

また、真剣の構造上、なるべく束に近い部分を持たなければ刃を上手く固定できないという理由もあるようだ。

 

以上の理由から、ついつい叩く動きをしたくなってしまう「剣道握り」をするよりは、むしろ叩く動きをしにくい「剣術握り」の方が、斬る動きを難なくできることが多いため、真剣を持つ時は両手を近づけて持つことが多いのだ。

 

以上が、剣術握りをする理由である。

 

ただ、今の言い方からわかる通り、別に剣道握りでも「斬る動き」が当たり前にできる程の技量があれば、無理をして剣術握りをする必要がある訳ではない。

実際、剣術の世界でも剣道握りをする達人が存在するというのは、それが理由だ。

カンニングをした生徒に対する行きすぎた指導?自殺に追い込まれた高校生について

2021年、不幸な事件が起こった。

大阪の清風高校に通っていた男子生徒が、自殺をしたのだ。

 

原因は、その男子生徒がカンニングをしたことに対する「行きすぎた指導」だと、遺族はそう言って高校に訴訟を起こした。

 

これについて解説する。

 

 

ネット上では、「カンニングするやつが悪い」「自殺したら偉いのか」などという意見を言う者が多く見受けられるが、これらは的外れである。

 

問題になったのはそこではなく、「行きすぎた指導」であるからだ。

 

 

試験中に生徒のカンニングを発見した時、

カンニングをしたから0点です」とか、停学処分にしたり退学処分にしたりとかするのは別に良い。それをする権利が学校側にはある。

 

一方で、そのような"手続き"とは無関係に、生徒の人格を否定するような誹謗中傷をしたのなら、それは確かに人権侵害であり、罪であり、悪いことである。

そんなことをする権利は、学校側には無いのだから。

 

実際、カンニングをしたその男子生徒に対して、教員は「お前は卑怯者だ」などという旨の人格否定をしていたようだ。

 

刑法の中にこのような罪と罰が規定されているかはよく知らないが、少なくともこれは人権侵害ではある。民事訴訟を起こされたら負ける可能性だってある訳だし、場合によっては刑事訴訟もあり得る。

 

例外の場合があるとするならば、学校側が発行した「もしあなたがカンニングをしたら、あなたの人格を否定するような誹謗中傷を含む厳しい指導をします。それを受け入れて下さい。」という旨が書かれた誓約書に、生徒とその両親が同意の署名をしていた場合くらいだ。

 

これが、この事件の問題点である。

 

また、「現実問題として、生徒の人格否定をしながら叱ってくるような教師は沢山いるんだから、それを想定しなかったこの男子生徒が悪い」という意見もあったが、それはやはり「行きすぎた指導」を正当化する理由にはならない。

 

確かにちょっと考えればわかることだが、

「そんなことすらわからないような精神状態」、もしくは「わかっていても衝動的にやってしまうような精神状態」だった可能性もある訳で、この男子生徒にも責任があるかどうかは決めつけられるところではない。

 

第一、悪いから何だと言うのだ。犯罪だという訳でもあるまいし、明らかにその「悪い」は、法律などの'公的な良し悪し"ではなく、"私的な良し悪し"である。

 

街中で強盗やひったくりを警戒せずに無防備に歩くことが犯罪ではないのと同じように、教師からの誹謗中傷を警戒せずにカンニングをしてしまったという部分は犯罪ではない。

 

また、カンニング自体は悪い(一応、犯罪ではない)が、だからといってそれを誹謗中傷するのが悪くないということにはならない。それはいわゆる「私刑」に該当するからだ。

 

 

さて、それを踏まえた上で、この裁判の行く末を見守るとしよう。

情報は、何を言うかよりも誰が言うかが重要である…という説話のパラドックス

「情報は、何を言うかよりも誰が言うかが重要である。」

という説話がある。

 

論理的にはそんなことはない筈なのだが、現実問題として「好きな人や信頼できる人に言われたことは納得できるし、そうでなければ納得しにくい」という人が残念ながら世の中には多くいるようだ。

 

まあそんな風にこの説話の内容について色々と思うところがある人はいるだろうが、今回は真面目にこの説話の内容について解説する訳ではない。

 

この説話にはパラドックス(矛盾・ジレンマ)が存在すると主張した人がいるのだ。

今回はそれについて解説する。

 

情報は、何を言うかよりも誰が言うかが重要である…という説話のパラドックス

 

まず、この説話は次のような命題として解釈できる。

 

①「言う人が信用できる人だった場合、その情報は信用できる。」

②「言う人が信用できない人だった場合、その情報は信用できない。」

 

(※もちろん、「何を言うか」も全く意味が無いとは言っていないので、実際にはこれらはあくまでも傾向にすぎない。)

 

 

これについて、パラドックスが生じるとのこと。

 

その主張は概ねこうだ。

 

①「もしこの説話を言っている人が信用できない人なのであれば、これは信用できない話になり、しかしそうなるとこの話の内容は真実になってしまい、真実を言っているから信用できる人だということになってしまう。」

②「もしこの説話を言っている人が信用できる人なのであれば、この話は相手が信用できるからそれっぽく聞こえるだけで、内容に整合性や論理性は無いのではないかという可能性が生じるため、その人を信用できなくなってしまう。」

 

 

しかし論理学的に考えると、この主張には穴がある。

 

まず、「逆」「裏」「対偶」という言葉をご存知だろうか。命題の真偽に関する重要事項だ。

例えば、「AであるならばBである」という命題があった時、この命題が真であるならば、

この逆は「BであるならばAである」、

この裏は「AでなければBではない」、

この対偶は「BでなければAではない」となり、

逆と裏は偽となり、対偶は真となる。

 

 

これを本題に当てはめて考える。

 

①「もしこの説話を言っている人が信用できない人なのであれば、これは信用できない話になり、しかしそうなるとこの話の内容は真実になってしまい、真実を言っているから信用できるということになってしまう。」

 

②「もしこの説話を言っている人が信用できる人なのであれば、この話は相手が信用できるからそれっぽく聞こえるだけで、内容に整合性や論理性は無いのではないかという可能性が生じるため、信用できなくなってしまう。」

 

長いので、不要な部分を削ろう。

 

①「この説話を言っている人が信用できない人なのであれば、この話の内容は真実になり、ならばその人を信用できるということになる」

 

②「この説話を言っている人が信用できる人なのであれば、この話は相手が信用できるからそれっぽく聞こえるだけという可能性が生じ、ならばその人を信用できなくなってしまう。」

 

 

例えば、①について。

 

「この説話を言っている人が信用できない人なのであれば、この説話の内容は真実になる」

という部分は確かにその通りである。何故ならそれは、説話の内容がそう示しているからだ。現実に本当にそうであるかは別として、この説話の内容を前提として考えるならその通りだ。

 

しかし、その後が問題だ。

 

「この説話の内容が真実になるのならば、その人は信用できるということになる」

この部分が誤りなのである。何故なら、そんな話はこの説話の中に無いからだ。

 

「この説話を言っている人がこうなら…」という話をしているのであって、「この説話の内容がこうなら…」という話はしていないのである。

 

実際、

「この説話を言っている人が信用できない人なのであれば、この説話の内容は真実になる」

の対偶は、

「この説話の内容が真実ではないのならば、この説話を言っている人が信用できないとは限らない」

になるのであって、

「この説話の内容が真実になるのならば、その人は信用できるということになる」

にはならない。従って、この命題は真であるとは言えないのだ。

 

※「信用できないとは限らない」とはこの場合、まず「信用できない」という表現が

「否定を信用する」という意味である(例えば「リンゴは赤い」を信用できない=「リンゴは赤くない」を信用する…という意味になる)ため、これを否定すると「信用する、もしくはどうにも考えない(肯定を信用するでも否定を信用するでもない)」になるため、「信用する」とは明確に異なるのである。

 

 

②も同様である。

 

「この説話を言っている人が信用できる人なのであれば、この話は相手が信用できるからそれっぽく聞こえるだけなのではないかという可能性が生じる」

というのはその通りなのだが、

「この話は相手が信用できるからそれっぽく聞こえるだけなのではないかという可能性が生じたのならば、その人を信用できなくなってしまう。」

というのは説話の中に無い話であり、対偶でもないので真であるとも言えない。

 

従って、パラドックスは生じないのだ。

正しさとは?正論が正しくない場合とは?

よく、「正論しか言わない人が嫌い」とか「正論を言ってくる人に嫌悪感を覚える」とかっていうことがありませんか?これを読んでいる貴方だけでなく、貴方が今まで見聞きしてきた人達の中で。

 

論理的には、正しいことを言っている筈。

でも、何故だか腑に落ちない。納得できない。理解はできても、それに従おうという気が心の底からは湧いてこない。

そういった不思議な現象が起こる原因について、論理的に解説します。

 

 

正しさとは?正論が正しくない場合とは?

 

 

結論から言いますと、価値観の相違が原因です。もっと言うなら、正論を言うその人にとっては"かなり正しい"けれど、言われた側にとっては"そこまで正しくない"ということです。

 

わかりやすく価値観という言葉を使いましたが、「欲求」「感情」「正義」「善悪の基準」などと言い換えても良いでしょう。

 

正論は「正しい論」と書きますが、そもそも「正しい」とはどのように決まるのか。

欲求や価値観で決まるのです。

 

例えば、

①「法律によって、罪と罰が規定された。」

②「法律に基づいた罰を執行するための組織(警察や裁判所や刑務所)が存在し、これらの国家権力は強大である。」

③「違法な行為(即ち犯罪行為)をすると、それら国家権力によって、最終的にはなす術もなく刑罰を執行される。これはとても"嫌である"。」

④「だから、犯罪行為をするのが"嫌だ"。」

⑤「また、自分が他の人から犯罪行為をされて不快感を与えられるのも"嫌だ"。」

⑥「ならば、"人は犯罪を犯してはならないものだ"と考えることにしよう。そうすれば辻褄が合うから。」

 

…とまあこのように、まず感情や欲求から価値観が生まれます。

 

ただ、どんな事象に対してどんな感情や欲求を覚えるかは、人それぞれの脳の性質とそれまでの人生での経験次第。

ですから、そこから生まれる価値観も人それぞれという訳です。

 

そして、正しさや物事の良し悪しは、そういった価値観などを前提条件として決められます。

「こんな価値観の自分にとっては、これは正しくてこれは間違っている」ということなのです。

 

 

正論を言われた時。

自分と相手との間で、価値観が違う。だから正しさや良し悪しの基準も違う。

だから、相手の言ってきた正論は「相手にとっては正しい、もしくは相手の中の"一般的な善悪の基準"の認識の中では正しい」というだけである筈。つまり、自分にとっても正しいとは限らない。

でもそこに気付けずに、「相手の言ってることは正しい筈なのに、自分の感情はそれを正しくないものと認識している」という矛盾に困惑してしまう(認知的不協和)。

その困惑が大きなストレスとなり、結果として「正論を言われた時に大きなストレスを受けた」という経験が積み重なる。

そして、正論を言う人が嫌いになる…という訳です。

 

例えば、

「人は健康に長生きした方が良い!」という価値観を強く持つ人が、「睡眠をしっかりとって、栄養素をしっかり摂取した方が良いよ!」と言ったとして、それは本人にとっては"かなり正しい"発言なのですが、

そのような価値観を殆ど持たず、「人はとにかく限られた時間の中で沢山の快楽を得る方が良い!」という価値観を強く持っている人にとっては、その行動も発言も"あまり正しくない"ということになり、しかし尤もらしい内容なのでうまく言い返せず、それでストレスが溜まるということです。

 

 

そして、正しさを決めるための大前提である価値観・感情・欲求そのものには、正しさも善悪も良し悪しも是非もありません。

それは、生まれてきてしまった以上仕方なく湧いてくるものであり、初めから存在していたものであり、大前提だからです。

 

正しさとか良し悪しとかっていう概念は、感情や欲求や価値観、もしくは目的や法則や規則など、そういった前提条件そのものには存在せず、それらに対する手段にこそ存在するのです。

もちろん、その"目的"というのが別の何かのための"手段"でもある場合には例外ですが…

 

 

要するに、物事の良し悪しや正しさを話す時は、必ず「○○的には…」「○○にとっては…」「○○に基づくなら…」などという表現を付けなければならないということです。私の、「人は論理的に話すべきだ」という価値観に基づくなら。

 

「人を殺したい」という感情だって例外ではありません。それ自体は、「法律的に」とか「道徳的に」とかっていう条件を付けるならまだしも、無条件に絶対的に悪いことではないのです。

良い悪いというのは、「その欲を満たすためには、どうすれば良いのか」という話をした時などに初めて発生する概念なのです。

もしくは、「そもそもその欲を満たすことが、幸福のためになることなのか」という話をした時などにね。

 

ご注意を。別に、「人を殺したい」と思う人にとっては「人を殺すことが正しい」ということになるとも限らないのです。

 

それは「人を殺したい」という"目的"が、本当は別の何か(例えば快楽を得ること)のための"手段"に過ぎないのかも知れないという理由もありますが、それだけではありません。

 

先程から私は、「正しい」とか「間違いです」とか端的な言い方をせずに、「かなり正しい」とか「あまり正しくない」とか、正しさに程度があるかのような言い方をしていますよね。その理由も含めて説明します。

 

言われてみれば当たり前のことでしょうが、人の欲求や感情は一つではありません。

それらは多種多様であるため、時には同一人物の欲求どうしが矛盾し、互いにぶつかり合う現象(葛藤)が起こるのです。

 

であるならば、人一人の中にある価値観や正義も一つとは限りません。

 

「人を殺したい。だから自分にとっては人を殺すことが良いことであり、正義なのだ」と思ったとしても、それ以外には何も思わなくなる訳ではありません。

 

「人を殺したら犯罪になる。警察から逃げ隠れしてビクビクと怯えながら過ごす日々は嫌だ。もし捕まったら重い刑罰を受ける。それも嫌だ。人を殺さなければそんなことにはならなくて、たまには美味しいものを食べたり遊んだりして、ささやかな快楽や幸福感を得られる。それは良いことだ。自分にとってはそれもまた正しいことだ。」

とも思うかも知れませんよね。

 

それらの矛盾する感情・価値観・正義どうしを比較して、どちらの方がより大事なのかということを考え、より大事ではなかった方を、大事だった方の邪魔にならないようにするために必要な分だけ妥協した結果として、「じゃあ、人を殺さない方が"良い"な」という結論に至ることもあるのです。

 

まあ、そこで「やっぱり人を殺した方が良いな」という結論が出てしまったら、それはもうどうしようもなく、「その人にとっては、人を殺すことは正しい」ということになってしまうんですけどね…

 

 

…話が危なくなってきましたね。戻します。

 

 

つまり価値観や欲求は、一つ一つは正しさも良し悪しも無く、まあ強いて言うなら全て正しいのですが、それに対して実際にどう行動しようかという話になると、どれも100%正しいということにはならない場合が多いんですね。

 

例えば「健康に生きたい」という欲求と「快楽を沢山得たい」という欲求が混在している人物は、どこかでこの二つの欲がぶつかり合い、葛藤することでしょう。

「お菓子を食べたいけど、食べちゃダメなんだ」とか。

そうなった時は、「健康のことだけ重んじた行動」や「目先の快楽のことだけ重んじた行動」は正しい行動にはなりません。

 

仮にその人は「健康に生きたい」という欲が60%あって、「快楽を沢山得たい」という欲が40%あるのだとすると、単純に考えてその人にとっては「健康に生きていける可能性が60%以上あって、なおかつ気持ち良く生きていける可能性が40%以上ある生き方」が正しいのであって、

「単に健康に生きていける可能性が100%あるだけの生き方」が正しい訳ではないということです。

具体的に言うなら、健康志向に基づいたレシピでお菓子を手作りするとかっていう方法が正しいのです。

 

ですからこの例え話の中では、「健康に生きようと工夫・努力する」という行為は60%くらい正しくて、「沢山の快楽を得ようとする」という行為は40%くらい正しいのです。

 

「正しさに程度がある」とはそういうことです。

 

いわゆる正論は、そういった程度の問題を無視して、「これが100%正しい!」と決めつけることが多い。

ただ言われる側にとっても、100%とは言わずとも何割かは正しいことなので、うわべだけなら「確かにその通りだ」と理解することはできる。その上で、それとは相反する正しさの基準も無意識に持ち合わせているため、なんだか漠然と正しくないような気もしてしまう。

それで先程言った認知的不協和から嫌悪感を覚える流れになってしまうというのもあるでしょう。

 

何が良くて何が悪いのかということは、ただ「場合によるよね、人によるよね」と考えるだけでは不充分なのかも知れません。

人によるというのはその通りですが、じゃあ自分にとってはどうなのかと言った時に、相当慎重に冷静に、視野を広くして考える必要があるのだと思います。

 

以上、正しさという概念と、正しくない正論についてのお話でした。