「倫理」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。
まあ、昨今において「倫理的に問題がある」という表現が多用されすぎていて、中には間違った意味合いで用いられることも多くなってきた近年であるが、倫理とは元々、以下のような意味なのである。
「様々な感情・価値観・思想を持った人間達が、いたずらに争わず、互いに協力し合い、上手いこと穏便に共存していくための、規範やルールを作る上での考え方」
さて話は変わるが、世間を見てみると、倫理を軽視するような発言を確信的に行う者を見かけることがある。
その最たる例が、「犯罪者は全員死刑にしちゃった方が良い」とか、「こんな凶悪な犯罪者には残虐な刑罰を与えるべきだ」とか、犯罪に関する主張である。
これについて筆者は、そもそも何のために倫理が生まれたのか、なぜ倫理が必要なのかという点と紐付けで、反論していこうと思う。今回はそういうお話だ。
そもそも倫理の中には、最も重要な理念として、「なるべく争いを生まないようにするべきだ」という考え方がある。
倫理の目的は人間同士が協力し合って繁栄することなのに、その人間同士で争っていたら始まらない。
まあ尤も、皮肉なことに、ある特定の人間を敵に回すことで、同じくその特定の人間を敵に回している他の人間達と協力し合うことができるという側面も、人間同士の敵対という事象の中にはには存在するけれども、倫理で目指しているのはそんな小規模な協力と助け合いではなく、言ってしまえば全人類の協力と助け合いと高め合いなのである。
では、なぜ全人類で協力し合わなければならないのか?それは、人類が生物として強すぎるからだ。人類を敵に回すのが、危険だからだ。
知能は高く、知略、技術力、あるいは知能によって「鍛錬」という概念を認知したことによる、体力。何よりも集団行動をする生き物だ。
自分が人類であるかどうかに関わらず、戦う相手が人類なのであれば、それだけ戦うリスクはあるということだ。戦うがために、多くを失う可能性が高いのだ。
以上が、倫理の理念と、その根拠の説明である。
さて、話を戻してみよう。
犯罪者を全員死刑にしようとか、凶悪犯には残虐な刑罰を与えようとか、そういったことが倫理的に間違いである理由についてだが、これは先程も言ったよう、倫理の中で最も重要な理念である「なるべく争いを生まないべきである」という考えに反しているからである。
極端な刑罰や残虐な刑罰を実行してしまうと、冤罪の可能性は抜きにしても、「更生の余地があった家族を殺された」とか、「家族を苦しませながら殺された」とか、殺される犯罪者の家族や友人には、辛い思いをさせるに違いないだろう。
中には、「そんなことがまかり通るような法律を決めたこの社会に報復してやる」という風に、武力で社会に対抗しようとする者も現れるだろうし、すぐには行動に移さずに、同じような志を持つ者を密かに集めて、徒党を組んで実行してくるかもしれない。
それがいわゆる、テロリズムであったり国家叛逆であったりするのだ。
ここで、「犯罪者が罰せられるのは当然だろ」とか、「悪いのは犯罪者側だから、犯罪者側には報復をする権利が無い」とか、そんな事を言う人間もいるかも知れないが、しかし、それが一体、どうしたというのだろう?
だから何だというのだろう?
そうやって、社会に報復しようとしている遺族に説明すれば、「ああ、それだったら自分が悪いね。じゃあ報復はやめるね」と納得してくれるとでも思っているのだろうか?
それこそ、綺麗事である。
どちらが正しくてどちらが悪いとか、そんな実体の無い概念は本質ではなく、ただ現実問題として、そういう風に社会に報復してくる人間や集団が現れる可能性があることが問題なのだ。
従って、例え相手が悪くとも、相手が文句を言えない立場でも、なるべく相手の恨みや憎しみを買わないようにするべきなのだ。文句を言えない立場であっても、強引に武力による攻撃を仕掛けることはできるのだから。
刑罰を執行するにしても、犯罪者の危険性を無くすことと、犯罪者やその家族などに恨まれたり憎まれたいしないようにすることを両立しなければならないのだ。
そのため、更生の余地があるならば死刑や終身刑にはしないし、更生の余地が無くとも、あまり苦痛を伴わない死なせ方で死なせてあげる必要があるという訳である。
以上が、極端な刑罰や残虐な刑罰が倫理的に悪であり、また倫理そのものも正当な考え方であるということの理由である。